喫茶の風習が日本へもたらされたのは、中国の唐時代というのが定説です。延暦二十四(805)年七月、中国へ渡っていた僧、最澄が遣唐使や留学僧と帰朝した 際に、茶の種を持ち帰り、喫茶の習慣を伝えたといわれています。中国での喫茶の風習は、漢代(紀元前202〜後220年)四川省一帯においてすでに行われ、少なくとも二千年の歴史があります。王褒の「僮約」(紀元前59年)では、すでに茶が商品化されていたことがその文章から読みとれますが、市井の人々が楽しみの一つとして喫茶の風俗・文化を作り出したのは唐代になってからです。どのような喫茶文化が中国で生まれ、日本へ伝来したか、歴史を簡単にふりかえりましょう。

唐代、宋代の茶

 唐代(618〜907年)に入ると、喫茶文化は上流階層だけではなく、一般庶民にまで普及しました。この時代には世界で初めて茶の百科事典ともいえる、『茶経』が陸羽によって著されました。『茶経』には茶の歴史、製茶道具、茶道具、喫茶法などまで、詳細 に述べられています。これによれば、当時の茶は餅茶とよばれる固形茶で、まず摘んだ葉茶を蒸して臼でついて小さく固め、乾燥して保存します。飲む前に固形茶を削り、あぶって粉末にして釜の中で沸騰した湯に入れ、茶碗に汲み分けて飲んだ、とされています。
 宋代(960〜1279年)には、皇帝に納められる最高級の餅茶が作られ、製法は唐代よりさらに洗練されました。葉茶を蒸した後、すり鉢ですって細かくしたうえで木型に入れて固めたので、削ると非常に細かい粉末となり、茶碗の中で点てて飲むようになりました。このとき、初めて竹製の茶碗が使用されました。
 この宋代の喫茶法が日本へ入り、抹茶の源流となりました。そして千利休(1522〜1591年)によって日本独特の茶の湯文化として昇華しました。

煎茶の登場

 明代(1368〜1644年)になると、中国では喫茶文化に大革命が起こりました。洪武帝は洪武二十四(1391)年、餅茶は製造過程に大変な手間がかかり、かつ茶の本当の味を失うからと製造禁止としました。
 固形茶を粉末にして喫する「抹茶」に代わって、葉茶を急須に入れ、お湯で成分を抽出して喫する「煎茶」の喫茶法が主流となりました。茶壷(ティーポット)はこの時代 になってようやく出現したものなのです。このとき日本は足利義政(1436〜1490年)が銀閣寺を建て、抹茶文化が盛んになりつつあった時代でした。
 明代の文人、文震亭は『長物志』に、「我が朝(明朝)の好みはまた別で、その烹かた試しかたも、前人とは異なるが、非常に簡便で、天然の趣がことごとく備わり、茶の真の味の発揮といえるのだ」と述べています。

煎茶の日本への伝来

 「煎茶」の喫茶法は、江戸時代初めに、唐人貿易や明末清初の動乱によって日本にもたらされたと考えられています。
 売茶翁高遊外も童僧の折、師の化霖道龍に伴われ、長崎唐寺で福建の銘茶を振る舞わ れたことが『梅山種茶譜略』の注記に見えます。
 煎茶を招来したといわれる隠元隆隆gは、承応三(1654)年長崎に渡来、寛文二(12662)年、京都の宇治に黄蘗山萬福寺を創建しました。明の建築技法を用いて創建された萬福寺は、当時としては最先端の中国文化を伝え、その中心地となりました。
 煎茶を民間へ広めた売茶翁高遊外は、延宝三(1675)年に佐賀県で生まれました。肥前鍋島、蓮池藩の医者、柴山常名の三男で、幼名を菊泉といい、十二歳で黄蘗僧化霖道龍について蓮池の龍津寺にて得度し、僧名を月海元昭と改めました。
 享保二十(1735)年ごろ東山に通仙亭を構え、折を見ては茶具を担って近在の名所に茶点を開き、煎茶を売って、生活の糧とするようになりました。売茶翁は文人墨客と親しく交わりました。『茶経詳説』を著した相国寺の大典顕常、彭城百川、伊藤若冲、池 大雅、木村蒹葭堂。これらの人々を通して煎茶文化の輪はさらに広がったのです。
 江戸時代になると、抹茶は茶道としての理念や形式美が完成し、将軍をはじめ大名、富裕町人に至まで普及していきました。それとは対照的に、煎茶は珍しい新鮮な文化として、身分に関わりなく当時の知識人たちに大いに歓迎されたのです。
 煎茶文化が流行するにつれて、日本の茶にも変化が表れました。元文三(1738)年、永谷宗円は私たちが現在飲んでいる蒸製の煎茶を開発しました。この開発により、日本独特の煎茶趣味が形成、洗練され、今日に至っています。

煎茶の展開

 煎茶は開放的な空間で形式にこだわらず、自由闊達に楽しむお茶でした。当時としては貴重な磁器の小さな茶碗でいれた薫り高い茶を喫し、席上では漢詩を読んだり、唐渡りの書物や、文房四宝(筆、紙、硯、墨)を愛でたりと、仲間たちとの風流な会話を楽 しんだのです。
 こうした文人趣味の煎茶を最初に伝えたのは、大枝流芳(生没年不明)です。わが国初のまとまった煎茶書、『青湾茶話』【宝暦六(1756)年】を著作刊行しました。
 売茶翁と交わった大坂の木村蒹葭堂(1736〜1802年)は、和漢の書を多く蔵し、本草に詳しく、珍しい文物を蒐集していたので、多くの文人墨客が訪れました。喫茶を楽しむ結社、清風社も主催しました。『雨月物語』の作者、上田秋成(1734〜1809年)と も交友があり、秋成に、龍井茶などを振る舞ったことがあります。上田秋成の『清風瑣言』【寛政六(1794)年】は、本格的な煎茶書で人々に歓迎されましたが、村瀬栲亭が序を記しています。秋成は晩年京都で、茶に関する随筆集『茶か酔言』【文化五(1808)年】も著し、新たな境地を開いています。

煎茶文化の開花

 煎茶文化は寛政年間(1789〜1801年)から文化文政(1804〜1830年)以降、幕末から明治にかけて、最盛期をむかえます。田能村竹田、頼山陽、青木木米たちが活躍します。木米はすぐれた煎茶器を多く生産した名工です。竹田は書画をよくし村瀬栲亭に師 事し、秋成とも面識があり、煎茶に関しては、『竹田荘茶説』などの茶書を著し、非常に簡明な煎茶を提唱しました。『日本外史』を著した頼山陽も「山紫水明処」と名づけた文房で煎茶を楽しみました。この頃、文人たちにとって煎茶は、自然に生活の一部となっていたのです。
 その他1802年『煎茶早指南』柳下亭嵐翠子著、1849年『木石居煎茶訣』深田精一著、1857年『煎茶綺言』東牛売茶著、などの実践的な茶書が陸茶が受け入れられたことを示します。さらに煎茶の世界において、文人茶に対する宗匠茶が出現します。明治には田能村直入や『鉄荘茶譜』を著した富岡鉄斎が、煎茶人として素晴らしいものを遺しています。

日本礼道小笠原流事務局